すっぱいぶどうは食べ飽きた

東京をサバイブ!

愛より親切が残る

カート・ヴォネガットの“愛は消えても親切は残る”を受けて、糸井重里さんが「愛に自信がないものも、元気で生きてもよいのが愛だよ」と言っていた。
とても優しい言葉だなあ、と思った。


愛を問いかけたり試みたりすることは人を苦しめる、とも。


マンガ『僕等がいた』に、アキちゃんこと千見寺亜希子という才色兼備のヒロインの友人が出てくるが、彼女が「あたしには愛の才能はない」と言うシーンある。

 

愛は才能なんかじゃない、と反感を覚える人もいるかもしれないが、わたしにはこのセリフがしっくりきた。

 


長い片思いをする人は、人よりシャッターを切る回数が多いのかもしれない。

心の中に、たくさんの切り取った一瞬があるので、相手を自分の一部として捉えてしまう気があるのだろう。

恋愛上手な女の子って、あんまり片思いをしないと思う。

自分に興味を抱かない人に対して、深みにハマる前にブレーキが踏めるのだ。

 

 

話は変わるが片思いの曲を歌わせたらポルノグラフィティの右にでるアーティストはそういないんじゃないかと思う。

作詞は主にギターの新藤晴一さんが担当することが多いが、彼のことをわたしは片思い番長と呼んでいる。

 

中学生の頃に聞いた「アゲハ蝶」は斬新でかっこよかったが、それから10年以上経った今、この曲が本当の意味で好きだと言えるようになった。

 

当のハルイチさんは、この曲の歌詞を書きなおしたいと思っているらしいのだが。

若気の至りって恐ろしい。

 

「アゲハ蝶」についてはちょっとネットで検索しただけでもいろんな解釈があることがわかる。


特におもしろかったのが曲のラストにツッコミを入れているもの。

 

“冷たい水をください できたら愛してください”

 

この部分について要求の内容が並列でないというのだ。

「冷たい水をください」という日常的なお願いから、いきなり「愛してください」とは飛躍しすぎではないか。

つなげるのなら“ついでにアイスティーもください”くらいなものだろうという最もな意見なのだけど、わたしはここは“できたら愛してください”以外は置けないと思う。

 

もちろんひとつの解釈として。


“あなたに逢えた それだけでよかった
世界に光が満ちた 夢で逢えるだけでよかったのに
愛されたいと願ってしまった 世界が表情を変えた”

 

“あなたが望むのなら この身など
いつでも差し出していい
降り注ぐ火の粉の盾になろう”

 

アゲハ蝶は全体的に過剰なくらい献身的な愛を歌っている。

でもそこにほんの少しみえてしまう“僕”の本心。

夢で逢えるだけでいいとしながらも“僕自身”が“あなた”から愛されることを完全にあきらめてはいないのだ。

 

その気持ちが“できたら愛してください”という恥ずかしいくらい直球の言葉となって表れるのがこの曲のラストだと思う。

 

“できたら”と謙虚な入り方をしているのに要求はとんでもない。

 


でも片思いってそういうものじゃないかなと思うのだ。

好きでいられるだけでいいと思った次の瞬間に見返りが欲しくなったりする暴力性も隠し持っている。どこまでも自分のエゴ。


自分との折り合いがつくまで“終わりなどはないさ 終わらせることはできるけど”なのだ。


片思い番長の本領、ここにみれり。

 

片思いですらこんな激情が潜んでいたりするのだから、愛には問いかけたり試みたりすることがつきものだ。

“心を奪われる”とは上手くいったもので心のバランスを失う程の人に出会うというのは
すてきなことであるのと同時に、とても恐いことだとも思う。

それに激情と呼ばれるものは意図せず他人も自分も傷つけるものだから
何を以て愛とするのか書いていてもわからないけれど、愛が苦手な人がいたっていい。


最後に残るのは親切。愛に勝つ親切。結構じゃないか。

目に見えない心遣いより目に見える偽善の方がよっぽど人を救ったりする。

 

ちなみにわたしは『僕等がいた』のアキちゃんが大好き。

出版社勤務で実家はお金持ち、黒髪ロングの美人でってところはもちろん、彼女が「愛の才能がない」って潔く言ってしまえるところも好きだ。

 

 

誰もがみんな恋に狂えるわけじゃない。

 

アキちゃんにステディな恋人の気配はなかったけれど、いつかすてきな人が現れたらいいなと祈っている七夕。


梅雨が史上最速で明けたと思ったら稀に見る大荒れで、天の川は見えそうにないけれど、もうすぐ夏本番だ。